ナイトミュージアム。映画のタイトルではない。最近、平日のうちの1日、たいていは金曜日だが、20:00あるいは21:00まで開いている美術館がある。仕事帰りの勤め人向けのサービスだが、私は今まで利用したことがなかった。妻子持ちの身として、自分ひとりの楽しみのためだけに家族そろっての夕食を犠牲にするのは、気が引けるからだ。しかし今日は許してもらおう。パウル・クレー展。私の一番好きな画家の特別展だ。

　入口の係員にスマホの画面を見せるて入場する。最近は美術館のチケットもQRコードだ。主催者のあいさつ文が書いてあるボードの前を通り過ぎ、展示室に足を踏み入れると、そこには期待通りの空間が広がっていた。

　クレーの絵は独特だ。フォービズムともキュービズムともシュルレアリスムともつかず、子供の落書きのようだなどと言われることもある。酷評のようにも思えるが、小さな子供のプリミティブな感性を失わずに創作を続けたと解釈することもできる。我が家には有名画家の画集がいくつかあるのだが、私の娘が幼稚園のころに一番よく見ていたのは、クレーのものだった。幼い彼女の心に通じる何かが、クレーの絵にはあったのだろう。

　鮮やかな色彩の前で、私は足を止めた。『バイエルンのドン・ジョヴァンニ』。モーツァルトのオペラ『ドン・ジョヴァンニ』をテーマにした作品だ。来場者があまり多くないため、ゆっくり鑑賞できるのはありがたい。近寄ったり遠ざかったりして堪能していると、ふと、また娘のことが心に浮かんだ。

　娘は最近、アイドルとしてデビューした。ずいぶん熱心にやっているようだが、あんなものに夢中になるあたりは、まだまだ子供だ。そもそも、半年やそこらの訓練だけでステージに立つということ自体が、私には信じられない。その程度で身に付く歌や踊りに何の価値があるというのか。オペラ歌手は何年も鍛錬を積み重ね、常人では真似すらできないような技量を身に着け、はじめて舞台に上がる。バレエや歌舞伎などでも同じだろう。芸能とは、そうあるべきものだ。

　『バイエルンのドン・ジョヴァンニ』以外にも、見ごたえのある作品は多かったが、しかし白眉はやはり、この特別展のパンフレットにもなっていた『猫と鳥』だった。あこがれていた作品に初めて対面するときの興奮を伝える言葉は、私の辞書にない。ただ、最後の展示室にかけられていたこの絵の前に立ったとき、思わず笑みがこぼれてしまったのは、三度娘のことを思い出したからだった。『猫と鳥』で描かれている猫の顔は、小学生だったころに娘が描いた私の似顔絵と、よく似ているのだ。

　帰りの電車の中で、妻からのメッセージが入ってきた。明日の夕食は任せるから、考えておいてほしい、という内容だった。読んだ瞬間、好物をすする娘の姿が脳裏に現れた。今日はよく彼女が出てくる。駅に入っているスーパーで中力粉を買って帰ろう。満面の笑みを浮かべる娘を思い描きながら、私は妻への返信を打ち始めた。

短いですが以上です。
読んでいただいた方、ありがとうございました。

乙
確かに影響を受けてそうな絵柄だ…よく見つけましたね…

乙
絵を見て誰の親か一発でわかったw
だからああなのかって納得してしまったw

アルパカですよアルパカ！